「私」の輪郭が固まる時がある。
それは人や社会、意味内容で記号化された物や情報、それらの只中に於いて流されると、
自覚の有無に関わらず、擬態としての「私」を捏造し固定する。
制作は「私」からの解放を促す回路として、
固定した自我を解体し「私」の輪郭を解していく。
「私」という内側をはみ出し、外へと向かう回路としての制作、
その過程において私は内と外を繋ぐ空の器として機能する。
この一つの回路を媒介として、
自我と自己、此岸と彼岸、聖と俗、意識と無意識、有限と無限、
この二重世界の内と外の往還を私は試みる。
内と外の往還、その動きの只中にある境界へ身を委ねることで
見えざるを見、感じざるを感じ、
五感や意識、個人の有限性を超えていけるのではないかと直感する。
この動機において私は見えない世界を絵画として翻訳し、もう一つの世界を可視化する。
■制作という回路について
制作は頭の中のイメージを出力する所から出発します。
最初はイメージを元に描き始めていきますが、
描いていくにつれ次第にイメージと画面の間にズレが生じます。
それは頭の中のイメージよりも、
画面上で起こっている出来事に従って描いていくからですが、
このズレが大きいほど自分でも驚くものが出来たり、
どう描いたか覚えていないものが出来上がります。
もし途中、最初に浮かんだイメージ通りに強引に進めようとした結果、
見えた部分を無視してしまうと
それは「自分はこうしたい」という「我」を絵に押し付ける事にもなり兼ねず、
予想の範疇に収まったものになるでしょう。
「こうしたら、こうなる」という予想の枠からはみ出し、
「どうなるか分からない」と彷徨うほどに、絵は予想の外へ連れ出してくれます。
描き進める過程で見えては消え、を繰り返すうちに、そうしたものが出来上がります。
自分の「我」というものをどれだけ空にして向き合えるか、
自我の内側から外へはみ出すには、
そうした「我を立てない」ことが大切だと感じます。
また、頭の中のイメージがスムーズに出力され出来上がる作品もありますが、
それらが何処から湧いて来たものか、具体的に言語化することは難しいです。
言葉や思考、意識が先にあるのではなく、
直感や身体、無意識が先にあるという制作態度に於いて、
それらの出所を把握する事は難しいですが、
私というフィルターを通して濾過されたそれらは、
此処ではない何処か、向こう側から来たものであるようにも感じます。
2022.9.13